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インタビュー

世界で一番、社員がハッピーな会社をつくる

富士フィルター工業株式会社 代表取締役社長 汐見千佳

  • 更新日:2022/11/16
  • 投稿日:2022/11/16

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富士フィルター工業株式会社は、先代である千佳さんのお父さまが創設した会社。スポーツドクターを目指し、会社を継ぐ気がなかった千佳さんに転機が訪れたのは、海外留学をしていたとき。ホストファミリーと家族の話をしているうちに、お父さまの仕事が世界中で求められる素晴らしい仕事であることに気付いたのです。「これほど偉大な会社を一代で終わらせてはいけない」と感じた千佳さんは、家業に飛び込むことを決意。入社後は自ら志願して現場仕事や営業を学び、8年後には副社長に就任。当初は「千佳なんかに何ができる」という考えだったお父さまでしたが、ついには「将来は千佳にやらせる」と信頼を獲得します。 その後、お父さまが病で急逝。短い闘病期間であったため、十分な引継ぎもできないまま、千佳さんは代表取締役社長に就任します。創業40周年の記念式典をするはずが、お父さまのお別れ会と新社長のお披露目会に。社長就任から15年が経ったいま、事業承継のこと、会社づくりのこと、そして経営者として大切にしていることを千佳さんにうかがいました。数々の困難を持ち前の粘り強さで乗り越えてきた千佳さんの表情は、太陽のように明るく、愛に満ちあふれていました。

この記事でわかること
  1. 事業承継にあたり「株の承継」に苦労した。もっと勉強しておくべきだった。
  2. 従業員自身が安心感をもって働くことができれば誰かをワクワクさせる「ものづくり」ができる
  3. 従業員との信頼関係が築けたのは、15年間諦めずに対話を続けた結果

事業承継にあたり「株の承継」に苦労した。もっと勉強しておくべきだった。

――創業者であるお父さまは、具体的な引継ぎをすることなく亡くなられたそうですね。

そうなんです。創業者は私に会社を譲る気がまったくなかったので、何も教えてもらえていませんでした。本人が残していた稟議書やノートをかき集めて、自分で必死に勉強しましたよ。とくに私が専門としていない技術分野にまつわるメモやコメントは、今でも取ってあり、答えを求めるわけでもなく、眺めて、創業者の存在、会社の原点を忘れないようにしています。

――その経験をふまえ、千佳さんが後継者のために残そうとしているものはありますか。

次の後継者には、私の考えというより人事制度であったり、働きやすい環境であったり、会社の体制を残そうとしています。私が父から会社を継いだときって、会社のルールもないし、教育プログラムもなくて(苦笑)。それを一から整理するのは本当に大変でしたが、ようやく整ってきました。うちの会社が技術企業としてさらに飛躍するためにも、技術畑の方がものづくりに集中できる環境を残したいですね。

――事業承継にあたり、苦労されたことはありましたか?

株の承継ですね。もっと勉強しておくべきだったと後悔しました。創業者というのは、自由に何してもいいと私は考えています。それを継ぐ2代目・3代目が本当に大変なんです。他社さんは、事業承継にまつわるノウハウがあり、対策もされていると思うのですが、うちは株の話なんてしたことすらなかった。そういう知識がないと、会社に大きな損害を与えてしまうかもしれないのに……。株の話は、中小企業が脈々と続いていくために一番大事な部分なので、嫌な顔をされてでも先に話しておくべきでした。

――帝国データバンクのデータでも、事業継承にあたり60%程度の会社が税金や株のことで苦労するとありますね。

本当にそのとおりだと思います。株が理由で、会社を手放さざるを得ないとなったら、どうしようもないですからね。当時、大企業から来ていただいた財務の方がいらしてアドバイスを頂き助かりました。率先して言いにくいことを創業者に提案してくれましたし。株や相続の話をするのは、(事業承継が決まっているのであれば)早ければ早いほうがいいと思います。

従業員自身が安心感をもって働くことができれば誰かをワクワクさせる「ものづくり」ができる

――千佳さんが社長就任後に打ち出したという「世界で一番、社員がハッピーな会社を」という企業理念。これは、どうやって生まれたのですか?

創業者はいつも「Never Say No」でお客さまのニーズに応えて新しいものを創り出していました。好奇心旺盛で様々なことに挑戦し、また、事業の柱であるフィルターがより必要不可欠になっていくことが見えていたと思います。仕事が楽しくて仕方ない人でした。とにかく必死に走り続けた創業者なのでキーワードはたくさん残してくれましたが、承継時確固たる企業理念はありませんでした。ある程度の大きさになった会社がさらにこの先もフィルターで世の中をワクワクさせるには同じゴールを持ち、同じ言葉で話すことが必要だな、と考え、じゃあ誰かのワクワクを想像しながら働けるようになるために何が必要だろうと考えたら、まずは従業員自身がハッピーであることだろうと。自分がハッピーであればマニュアルでなく、相手の求める1歩先のワクワクを思いつけると思ったんです。

――なるほど。心理的にポジティブであるということですね。

これだけ従業員がいると、全員のハッピーを満たすのは難しい。だから最大公約数をとって、自分がみんなに求められていると実感できること、成長できること、会社はなくならないという安心感を持ってもらうこと、の3つを最低限保障したいと考えるようになりました。そのための最初の一歩が企業理念を作ることでした。

――育児・介護の支援制度も色々とチャレンジされていますよね?

国がカバーしきれていないところで何かできないかな、と。介護の支援については、育児休暇より介護での休暇が取りにくいように思えたので、介護のサポートを整備しましたし、それを気兼ねなく使ってもらえるように、私もコミュニケーションをとることを意識しています。育児の新しい試みでは、海外営業のリーダーの海外出張に、3歳になるお子さんを連れて行ってもらおうと思っているんです。営業部としては彼女に行ってほしい案件、彼女も出張に行きたいと思ってくれている。では会社として何が出来るかなと。私も小さいころ、両親の海外出張に連れていかれることがあったんですけど、両親が仕事をしている間、言葉の通じないシッターさんと過ごすのがすごくいい経験になったんです。だから今回、会社でシッターを用意しようと動いています。べつに変わったことをやろうとしているわけではなく、どうしたら出来るだけみんなハッピーになるかな、モチベーションが上がるかなというシンプルな発想です。困りごとって人によって違うから、柔軟に対応していきたいです。

――変な前例を作らないほうがいいと普通なら考えてしまうと思うのですが

世界で一番社員がハッピーな会社を作るために、困っている社員、挑戦をしたい社員の応援をしたり、背中を押したりすることって当たり前じゃないですか。だから、できるんです。それに対して文句を言ったりひがんだりするような人は、いないと思います。

従業員との信頼関係が築けたのは、15年間諦めずに対話を続けた結果

千佳さんがアメリカ留学されていたときのお写真(ご本人提供)

――ご自身の人格形成に影響を与えた出来事はありますか。

高校生の頃、アメリカに留学していたときのことですかね。最後のシーズンで陸上をやっていて、リレーの代表で大きな大会に出たんです。私は第二走者だったんですけど、バトンを渡すギリギリのラインで(手を伸ばすのを)諦めてしまって、次の走者にバトンを繋げず失格になってしまったんです。メンバー誰も私を攻めませんでしたし、バトンを手放したときの私はしんどくて『もう限界だ』と思っていたんですが、後で考えたら、絶対に限界じゃなかった、逃げたなと思いましたね。逃げて仲間のこれまでの努力をゼロにしてしまった。逃げてハッピーなことはひとつもないと、そのとき痛感しました。

――最後まで諦めないことの大切さを学ばれたわけですね。

そうですね。きっと私の原体験はこのリレーでの経験にあります。

――千佳さんは、経営者の仕事とは、どのようなものだと考えていますか。

判断すること、ですね。なので、とことん考えますよ。吐くくらい考える(笑)。それでも判断がつかないときは、待ちます。海に出かけてSUPなんかを漕いでいると、だんだんとマインドがシンプルになり、ふとアイデアが降りてくることがあるんです。創業者が優柔不断だったぶん、なるべく早く判断するようにはしているんですけど、納得できるまで、吐くほど考えます(笑)。

――権限を委譲していくことについては、どうお考えですか。

どんどん渡したいですし、リーダーたちにもどんどん渡していってほしいです。向かうゴールさえみんなで共有できていれば、誤った判断にはならないと思うので。組織変更で会社は潰れないと思っているので人事異動や組織変更は(人事部門に)任せてしまっています。「こっちじゃない方がいいかもしれないね」くらいの意見はしますけど、私の意見を押し付けるようなことはしません。

――――そうなんですね。

出張に関しても、うちは立場関係なく、自分で行程を決めてOKにしています。上司も「こっちのルートの方が効率良いよ」とか「そこまで行くなら、あのお客さまのところにも訪問してきたら」くらいのアドバイスはしますが、どこに行って何をするかの判断は、完全に個々に任せていますね。

――――どうやって信頼関係を築いていったのでしょうか。

従業員全員が同じ想いを持っていれば、同じプロセスを辿ってゴールへ進まなくていいと思います。創業者が富士フィルターという名前にした理由の通り、進み方は自由でいい。だけど目指すべきゴール/頂上だけはきちんと共有しましょうという話をたくさんしましたね。私も疑問に思ったことはとことん聞くし、あなたからの質問にもとことん答えますからっていうのを続けて、やっと今みたいな信頼関係が築けました。先日、久しぶりに執行役員の方々と昔ばなしをする機会があったんですけど、「昔は、社長の指示の意味がわからなかった。だけど今振り返ると、あの指示は合っていたと思うよ」と複数の方から言われて。どれだけ信頼されていなかったんだ!と思いました(笑)。

――ははは。先ほどおっしゃっていた「最後まで諦めない」ともリンクする話ですね。

そうですね。会社を継いで16年が経ち、「あの人はよくわからないことを言うけれど、ついていくと面白いことがある」と思ってもらえるようになったのは、諦めずに対話を続けた結果かなと思います。

――最後に、今千佳さんが目論んでいること、企みを教えてください。

Road to NASAって、社内プロジェクトがあったんですね。NASAにうちの製品を採用してもらおうって。これを実現するのに、7、8年かかったんですよ。本当に小さな小さな部品なんですけど。でも、とにかく言い続けて。NASAに行くぜっていうのが楽しいじゃないですか(笑)。社長として、全然まだまだだと思うんです。社内にもいろいろな提案をしなければならないし、社員をワクワクさせるにはどうしたらいいかなっていうのもまだまだ足りないし。でも打ち上げ花火を上げるのではなく、継続的にひとつずつ、お客さまの期待に応えて「世界中のどっかに富士フィルターが入っている」そんなふうになっていきたいです。

富士フィルター工業株式会社

1966年、工業用フィルターの製造・販売会社として設立。フィルターは世界中で使用され、一般化学、食品、医薬品、自動車、家電、ITなどの分野にとどまらず、グリーンエネルギーやクリーンエネルギーなどのエネルギー分野でも幅広く活用されている。現在は、フィルターの製造・販売のほかにシステムの設計、実働、アフターフォローまで一括で対応可能に。製造工場は栃木県にあり、地域貢献活動も積極的に行っている。

参考: https://www.fujifilter.co.jp

汐見千佳氏

1972年、東京都生まれ。大学卒業後、父が創業した富士フィルター工業株式会社に入社。自ら志願して製造工場や海外営業で経験を積み、2006年に代表取締役社長に就任。Forbes Japanが選ぶ『日本の100人』に選出されるなど、国内外から注目を集めるリーダーのひとり。

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執筆プロフィール
BUDDY+編集部
中小企業の経営者の皆さまに向けて、経営課題解決につながるお役立ち情報をお届けします。

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